表現の自由という難しさ
どうもこんにちは。 戦争中とかって、国民は「表現」を奪われていましたよね。 そして今では逆に「表現することは自由」です。
その「表現」をするために僕はブログというツールを使っています。 写真も撮ったりもしてるけどそれはまた別の話なので割愛。 ブログの表現に対するレスポンスは、SNSの普及によってかなりわかりやすくなりました。
Twitter、Facebook、はてなブックマーク…
うまく拡散されたときには色んな言葉をもらいます。
「役に立った」とか「もっと見たい!」という嬉しいコメントから 「クソ記事」とか「もう知ってる」という書いた側には辛いコメントまで。
記事を出した側には出した側なりの責任が表現の自由にはあると思いますし、 コメントした側はした側なりの責任がやはりあるのかな、と思います。 匿名なら何を言ってもいいわけじゃないと思いますしおすし。
まぁ、また何か言いたくなったわけです。
好意のコメントのつもりが
コメントされる側のとき、一発で批判とわかるコメントに対しては 耐性はだいぶつきまして、「あーこんな考えもあるのね」と受け流すことは簡単になりました。
批判が増えたということはそこまで(自分の読者層以外)記事が広がったっていうこと
これは[N]ネタフルのコグレさん(@kogure)が言ってたような気がしますが、 まさにこれだなぁと感じれるようになったわけです。
ただ、僕はこれにはやっぱり慣れません。
上から目線なコメント
批判ってのは別の意見があってこそのものですが、 同意してくれているのに上から言われてるっていうのに何か解せない。
そういうつもりがないまましている人もいそうなので、それは気を付けたほうがいいのかなぁと。 僕みたいな人もいるので、それってやっぱりもったいない。
もしかしたら僕がえらい勘違いして、そのコメントは別に僕に対して言ってない可能性もあるけどw
言ってみること自体がアレな雰囲気
表現の自由と言っておきながら、「言ってもいいのかなぁ」と思ってしまうことも多々。
例えばこんなこと。
「Macクソやな!」とか「Androidクソやな!」とかそういう論争っていつまでもありますよね。
それって本当どっちでもいいし、自分が好きな方使えばいいって思う。 というこの意見。
「それって本当どっちでもいいし、自分が好きな方使えばいいって思う。」 ということ言っちゃうこと自体が「もういいよ」と思われる、みたいな雰囲気を感じてました。
こんな例で伝わったでしょうか。
「嫌いだったら言わなかったらいいじゃん」って言う人もいるけど、 じゃあ「好きだったら言わなかったらいい」というようにも僕は思います。
どっちも同じことじゃない? 好きなことは肯定的で人の気分を害しないからいいのかな? 嫌いなことは、それを好きな人にとって気分を害するからダメ?じゃあその逆はどうなの?
正義の反対はまた別の正義、ガンダムの連邦軍とジオン軍的なアレを思い出しましたが…
「iPhone嫌い!!」と言えばiPhone好きから色んな角度から反論され、 「iPhone好き!!」と言えば「当然やろ」という雰囲気を出される。 (Androidに置き換えても可)
いや僕はiPhone好きですけど。
何か、色々と「言いづらい」場所ってある。こういうことを言いだすと何も言えなくなってきちゃいますけどね。
それでもこうして言ってるのは何だろう。 自分の居心地にいい場所にいるだけでは成長出来ないな、なんてことも思うし、 居心地のいい場所にいたいとも思う。
その考えはわかるけど、でも…という葛藤がすごくある 出したいけど、出せない、みたいな。
人間関係って難しいですね。 あれ、表現の話してたんでなかったけか。
そのうち答えをキチンと出して、振る舞っていきたいと思います。
おあとがよろしいようで。